冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

素謡「屋島」(大槻能楽堂)

 昨日、大槻能楽堂で大阪観世会定期能を見ました。大槻文藏さんがシテを務める「弱法師(よろぼし)」を見るのが主な目的でした。
 開演後、最初の曲は「屋島」の「素謡」でした。これがとても面白かったので、まずここから書くことにします。

 「素謡」という上演形式を鑑賞するのは初めてなので、どんな風にするのかを知りませんでした。
 切戸から男性が7人、登場し、目付柱の方向に向かって2列に並んで座ります。1列目は3人、2列目は4人です。

 前列向かって右端の方が謡い始めました。発声が明瞭でとても聞き取りやすい。「これは都方より出でたる僧にて候」などの言葉からワキだとわかりました。
 続いて1列目中央の方と向かって左端の方が謡います。その内容から中央の方がシテ、左端の方はツレとわかりました。後列の4人は地謡でした。

 つまり「素謡」というのはお囃子と舞を省いて謡だけで演奏する方法だったのでした。このやり方で「屋島」をどこまでやるのかと思ったら、一曲通して上演されました。50分くらいかかりましたが少しも退屈しませんでした。

 というのは、ワキばかりでなくシテ、ツレ、地謡の謡う詞章も聞き取りやすく、9割近く理解できたり、理解できなくてもおおよその想像がついたりしたからです。楽器の音がないと、謡はこんなにも聞き取りやすいのかと驚きました。
 詞章と謡の雰囲気から、描かれている場面が目の前に鮮やかに浮かび上がります。謡を聞いていて、ここまではっきりとシーンを想像できたのは初めてでした。
 笛と打楽器だけで構成されている能のお囃子は大好きなのですが、重なると謡が聞き取りにくくなりがちなのです。

 前もってネットであらすじや展開を読んでおいたのも役に立ちました。能を鑑賞する回数が増えて、謡の詞章に使われる表現に慣れてきたという側面もある気がします。そんなふうに思えることそのものが、能の鑑賞について発展途上にある私にはうれしくてたまりませんでした。

 季節は晩春。場所は四国の屋島の浦。夕暮れから明くる日の夜明けごろまでの出来事です。
 前シテは年老いた漁師。僧に一夜の宿を貸します。ツレは若い男です。漁師は僧に屋島の合戦の模様を尋ねられて、三保の谷(みおのや)の四郎と悪(あく)七兵衛(しちびょうえ)景清(かげきよ)という二人の勇者が競う「しころ引き」のエピソードや佐藤継信の最期をいきいきと語ります。
 その話の詳しさに僧が「あなたは誰ですか。お名前は」と聞くと、老漁師は義経の亡霊であることをほのめかして消えます。

 後シテは義経の亡霊。夜になってまどろむ僧の前に現れ、誇らかな思い出である「弓流し」の様子を語って、自分は命は惜しまなかったが名を惜しんだ(名誉を重んじた)のだと言います。
 そうして戦ってきた義経ですが、死後は修羅道に落ちており、ワキの前で能登守教経とのいくさを繰り広げます。

 春の夜が明け始め、敵と見えていたのは群れいるかもめ、ときの声と聞こえたのは浦風だったことがわかります。夜が明けて、高松から朝風が吹いてきました。

 この結末の部分が実に美しいのです。闇が薄れ光が屋島の浦を覆い始めるとともに義経の亡霊が消えて行く。その哀れさ、はかなさに胸を打たれました。
 詞章は次のとおりです。

  水や空、空行くもまた雲の波の、撃ち合ひ刺し違ふる、船戦(ふないくさ)の駆け引き、浮き沈むとせしほどに、春の夜の波より明けて、敵(かたき)と見えしは群れいる鷗、ときの声と聞こえしは、浦風なりけり高松の、浦風なりけり高松の、朝嵐とぞなりにける

 これを謡独特の8拍子で聴くと、涙ぐみそうになります。

 シテは山本博通、ツレは寺澤幸祐、ワキは赤瀬雅則、地謡は山田薫、梅若基徳、山本章弘(地頭=地謡のリーダー)、梅若堯之の皆さんでした。
 ちなみに梅若基徳さんは西宮能楽堂を運営している方で、山本章弘さんは素人義太夫の発表会の会場として使わせていただいている山本能楽堂の主宰者です。