冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

能「弱法師」(世阿弥自筆本、大槻能楽堂)

 素謡「屋島」に続いて能「弱法師(よろぼし)」が上演されました。主な出演者は次のとおりです。

    シテ      大槻文藏
    ツレ      武富康之
    ワキ     福王茂十郎
    ワキツレ  是川正彦
    同      喜多雅人


    大鼓    山本哲也
    小鼓    清水晧祐
    笛      赤井啓三

    間(アイ) 茂山七五三
    同     茂山千三郎

    地頭(地謡のリーダー)  観世清和


 あらすじを紹介します。

 河内国高安の里の通俊(みちとし、ワキ)は、人の讒言によって一子を追い出した。何年かたってその子を不憫に思い、四天王寺に詣で、7日間の施行を行う。
 その中日がちょうど彼岸の中日に重なった。この日、四天王寺は日想観を拝もうとして人々が押し寄せる。
 そこに盲目の乞食(シテ)が妻(ツレ)とともに四天王寺の石の鳥居に立ち寄る。よろよろとよろめき歩くところから弱法師とあだ名された乞食である。
 これを見た通俊は言葉を交わし、この弱法師が身なりに似ず雅情豊かな若者だとわかる。
 よくよく見ると、追い出した我が子である。悲嘆のあまりに盲目になったのだ。不憫だとは思ったが人目もあり、夜に入って父と名乗り高安へ連れて帰ることにする。
 日想観の時刻になり、シテは記憶に残るさまざまな美しい情景を思い浮かべるうち、本当に目が見えたような境地に至る。ところが折しも群衆が押し寄せ、シテは人にぶつかってころんでしまう。人々は笑い、シテは二度と幻想を見まいと思う。
 そのとき、
通俊が「あなたは何という名前ですか」と声をかける。シテは「高安の里の俊徳丸」と答える。まぎれもなく通俊の一子であった。俊徳丸は恥ずかしがって逃げようとするが、通俊は追いつき、俊徳丸の手を取って高安に帰っていく。

 今回の上演は「世阿弥自筆本による」という注釈がついており、普通に上演される「弱法師」とは少し違っていたようです。たとえば、普通バージョンでは弱法師は少年で、妻は登場しません。
 もっとも、こんな違いは後で調べてわかったのでした。

 シテが登場する場面は、ツレが前を歩き、シテは左手をその肩に乗せ、右手で細い杖をついています。
シテの装束は、若い人物なのにとても地味でした。ボロをまとっている様子を表現しているのでしょう。
 シテが目が見えたと錯覚するほどはっきりと思い浮かべるのは住吉、淡路島、須磨明石、難波の浦、長良の橋など。室町時代には実際に四天王寺から見えただろうと思われる遥かな景色です。見ている私の心にも春の夕暮れの光に満ちた美しいイメージが浮かびました。

 あらかじめあらすじを調べていたのですが、シテが群衆に押されてころぶという場面は、おそらく抽象的に表現するのだろうと思っていました。能では必ずしもリアルな演技はしないからです。
 ところが文藏さんは尻餅をつくようにしてかなり激しく転びました。このシーンは衝撃的でした。直前で美しいイメージを描いてすがすがしい気分に浸っていただけに落差が激しく、弱法師の受けた心の痛手、ショックが強く伝わってきました。

 要約すると、父親から追放されて視覚障害者になり乞食として放浪していた主人公が仏教の教えにより救いを得たように思ったが、その直後、人にぶつかってころび、盲目という現実、苦悩のどん底に突き落とされる。そのとき父親が現れて救いの手を差し伸べ、元の平安な暮らしに戻ることができた。
 というお話なのですが、この後、この主人公は幸せになったのでしょうか。気になるところです。

 地謡の清和さんを見ていると、顔の筋肉をしっかり使って感情を込めて謡っています。これにも驚きました。地謡は目を閉じて瞑想するような体で謡う人が多いので、そういうものだと思い込んでいたからです。
 清和さんにリードされた地謡はとても力強く、後半をしっかり盛り上げていました。

 この日、見所(けんじょ。観客席)は多く見積もっても6割程度の入り。大槻文藏さんがシテを勤める能があり、観世清和さんがその地頭を担当しただけでなく、この後、仕舞「西行桜」も舞ったというのに、なんというもったいないことでしょう。お客のほとんどが高齢者というのも寂しかったです。

 大槻能楽堂は建物が老朽化してきているので、今年、大規模な改修工事が行われます。完成後はイヤホンガイドも導入されるとか。今よりもっと幅広い層の観客が能を見るようになってほしいと切に願っています。

追記:「日想観」とは、「観無量寿経」にみえる観法の一つで、西方に沈む夕日を見て、浄土を想念すること。(「能を読む3  元雅と禅竹 夢と死とエロス」角川学芸出版より)