能「屋島」(大槻能楽堂)
土曜日に大槻能楽堂で「屋島」を見ました。「大槻能楽堂自主公演能」という定例の公演で、去年の早い時期から告知されていました。
私は大槻能楽堂の友の会に入っているので、早めにチケットを取ることもできたのですが、ごく最近までこの「屋島」という曲にちっとも興味が持てずにいたのです。
ところが先だって、素謡で「屋島」を聴いて、いっぺんにこの曲が好きになりました。それから慌ててチケットを取ったので、脇正面の後ろの方の席しか残っていませんでした。それでも十分楽しめましたけれども。
主な出演者は次のとおりです。
前シテ 漁翁、後シテ 義経 観世清和
ツレ 漁夫 大槻裕一
ワキ 旅僧 福王茂十郎
ワキツレ 旅僧 喜多雅人
ワキツレ 旅僧 中村宣成
アイ 屋島の浦人 茂山千三郎
大鼓 山本哲也
小鼓 大倉源次郎
笛 竹市 学
地頭 大槻文藏
今回、小書が「大事」「那須之語」と二つ付いていました。「那須之語」はアイが、那須与一が扇の的を射るエピソードを話すというものです。
「大事」は、当日配られた資料によると、
観世流で小書「弓流(ゆみながし)」に「素働(しらはたらき)」を加えると、小書名が「大事」になる。
とのことです。そして、
「素働」が加わると、(後シテが)抜キ足・流レ足などの所作で、波に揺られてなかなか弓を拾うことができない様子も演じる。(中略)後シテは地謡のうちに幕に入る。
と書かれていました。
「抜キ足・流レ足」って、どんな風にするんだろう? 興味しんしんでこの場面を待ち望みました。
すると、武者姿の清和さんが、なんと爪先立ちになって、舞台の正面から奥へ、脇正面の方を向いて弧を描くように、つつつ…と移動するのです。まるでバレエのよう。こんな動きを見たのは初めてで、驚いてしまいました。これが「抜キ足」なのか、「流レ足」なのかはよくわかりません。
能には思いがけず斬新な振り付けがあるんですね。
「弓流し」の様子を再現する場面やその後の修羅道でシテが戦う様子は勇ましいのですが、後ろ姿に哀しみが張り付いて見えました。
小柄な清和さんは義経を演じるのにぴったりなわけですが、そういうことではなくて、小柄に見えるように演じているのだと感じられました。
「羽衣」で天人を舞ったときの清和さんは大きく見えていたからです。
素謡で私が最も感動した最後の部分は、シテが明け行く海を眺めて呆然としたような表情をするのだろうと想像していました。ところが、橋掛かりの一の松あたりで一瞬、海の彼方を見るような様子を見せはしたものの、すぐに平静にもどり、戦闘態勢のまま、揚げ幕に向かって一目散! これにも驚いてしまいました。
敵と見えていたのは群れいるかもめ、ときの声と聞こえていたのは浦風だったと気づいたとき、修羅の世界で戦い続けている義経は、急いで闇の世界へ引き返していくというわけなのです。その姿そのものが浅ましく、はかなくて哀しいのでした。
後には朝の光がこの世界を照らし、打ち寄せる波の音や風の声が響くばかり。命を惜しまず名誉を重んじたという出来事さえも、大きな景の中に雲散霧消してしまいます。
哀しく空しいのに、どこか満たされて幸せなような、不思議な感覚を味わいました。
この日は満席でした。
とのことです。そして、
「素働」が加わると、(後シテが)抜キ足・流レ足などの所作で、波に揺られてなかなか弓を拾うことができない様子も演じる。(中略)後シテは地謡のうちに幕に入る。
と書かれていました。
「抜キ足・流レ足」って、どんな風にするんだろう? 興味しんしんでこの場面を待ち望みました。
すると、武者姿の清和さんが、なんと爪先立ちになって、舞台の正面から奥へ、脇正面の方を向いて弧を描くように、つつつ…と移動するのです。まるでバレエのよう。こんな動きを見たのは初めてで、驚いてしまいました。これが「抜キ足」なのか、「流レ足」なのかはよくわかりません。
能には思いがけず斬新な振り付けがあるんですね。
「弓流し」の様子を再現する場面やその後の修羅道でシテが戦う様子は勇ましいのですが、後ろ姿に哀しみが張り付いて見えました。
小柄な清和さんは義経を演じるのにぴったりなわけですが、そういうことではなくて、小柄に見えるように演じているのだと感じられました。
「羽衣」で天人を舞ったときの清和さんは大きく見えていたからです。
素謡で私が最も感動した最後の部分は、シテが明け行く海を眺めて呆然としたような表情をするのだろうと想像していました。ところが、橋掛かりの一の松あたりで一瞬、海の彼方を見るような様子を見せはしたものの、すぐに平静にもどり、戦闘態勢のまま、揚げ幕に向かって一目散! これにも驚いてしまいました。
敵と見えていたのは群れいるかもめ、ときの声と聞こえていたのは浦風だったと気づいたとき、修羅の世界で戦い続けている義経は、急いで闇の世界へ引き返していくというわけなのです。その姿そのものが浅ましく、はかなくて哀しいのでした。
後には朝の光がこの世界を照らし、打ち寄せる波の音や風の声が響くばかり。命を惜しまず名誉を重んじたという出来事さえも、大きな景の中に雲散霧消してしまいます。
哀しく空しいのに、どこか満たされて幸せなような、不思議な感覚を味わいました。
この日は満席でした。