冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

「古演出による 葵上」さらにつづき

 休憩の後、公演が始まりました。

 後見が正先に病床に臥す葵上を表す小袖を置きます。ここは通常のバージョンと同じです。次に照日の巫女、続いて朝臣が現れるのが通常ですが、今回はまず朝臣が登場しました。そして名ノリで自分は朱雀院に仕える臣下であること、葵上に物の怪が取り憑いて容態が悪く、貴僧高僧の祈りも一向に効き目がないと語り、照日の巫女を呼び出して葵上に取り憑いている物の怪の正体を明かさせようと思うと告げます。照日の巫女は弓のつるを鳴らして霊を呼び出すことのできる超能力者です。

 朝臣に呼び出された照日の巫女は

「天清浄(しょうじょう)地清浄。内外清浄六根清浄。寄り人は。今ぞ寄り来る長濱の。葦毛の駒に。手綱ゆり懸け」と謡います。

 この間に、後見が破(や)れ車を表す作り物を持ち出し、橋掛かりの一の松あたりに置きます。…だったと思うのですが、どのタイミングだったか、実は記憶があいまいです。もっと前だったかもしれません。大きな作り物なので、シテとツレが舞台へ出てくるのに邪魔にならないだろうかと思ったことを覚えています。

 照日の巫女のことばに応えるように、シテと3人の青女房が登場します。シテは黒地の腰巻、白地縫箔の壺折姿。青女房の装束は唐織です。「青」とは、若いという意味のようです。シテはそのまま作り物の中に入り、青女房は橋掛かりに並びます。一番前にいる人物はリーダー格のようで、装束の色がほかの二人とは違って、白×銀色っぽい色調です。ほかの二人(青女房2と3と呼ぶことにします)の装束は紅が入った色合いです。

 御息所「三つの車に法(のり)の道。火宅の門をや。出でぬらん。」

 青女房「夕顔の。宿の破れ車。遣る方なきこそ。悲しけれ」

 青女房「浮世は牛の小車の。浮世は牛の小車の廻るや報いなるらん」

 御息所「およそ輪廻は車の輪の如く。六趣四生を出でやらず。人間(じんかん)の不定(ふじょう)芭蕉泡沫の世の習ひ。昨日の花は今日の夢と。驚かぬこそ愚かなれ。身の憂きに人の恨みのなほ添ひて。忘れもやらぬ我が思ひ。せめてや暫し慰むと。梓の弓に怨霊の。これまで現れ出でたるなり」

 六条御息所の生霊に取り殺されたもう一人の女性、夕顔の名前や、仏教的な言葉が散りばめられた美しい詞章です。

 このあと橋掛かりから舞台へ進んできたように思うのですが、はっきり覚えていません。

 巫女に何者かと問われて、シテは「これは六条の御息所の怨霊なり」と名乗ります。皇太子妃だった頃の華やかな日々を回顧し、今は衰えて朝顔の日影待つ間の有様だと嘆きます。

 詞章の美しい独白ののち、恨みの心が高まって「今は打たでは叶ひ候まじ」と言う御息所に、リーダー格の青女房は「あら浅ましや。六条の。御息所ほどの御身にて。後妻打(うわなりうち)の御ふるまひ。いかでさる事の候べき。ただ思し召し止り給へ」と押しとどめようとしますが、御息所は聞かず、扇で葵上を打ちます。

 すると、青女房の2と3が「この上はとて立ち寄りて。われらも後にて苦を見する」と、それぞれに葵上を打ちます。さっきは制止していたリーダー格の青女房までが加わり、御息所もまた打ちます。御息所「今の恨みはありし報い」青女房「瞋恚(しんい)の炎は」御息所「身を焦がす」青女房「思ひ知らずや」御息所「思ひ知れ」と、壮絶です。まさに集団暴行です。

 この後、御息所は破れ車に葵上を乗せて連れ去ろうとするのですができず、唐織をさっと頭からかづいて足早に退場します。3人のツレも退場します。ここは、通常はシテは舞台奥、後見のそばに下がり、物着(舞台上での着替え)をするらしいです。

 朝臣が下人を呼び、横川の小聖を招かせます。この人物は山伏の姿をしており、数珠を揉みながら真言を唱えると、般若の面をつけ、白地に鱗文様の摺箔(小袖)、緋色の長袴姿で打ち杖を手にした後シテ(御息所の怨霊)が登場します。小聖と怨霊の対決場面は高速のお囃子と激しい所作で盛り上がる見どころです。

 怨霊はついに調伏され、成仏して去って行きます。

 私としては小聖に怨霊への憐れみがかいま見えるといいなと思ったのですが、そのような気配は全く感じられませんでした。恋にとらわれて怨霊と化すような愚かな女に憐れみなど必要ないと考えているように見えました。

 不思議なのは、成仏した怨霊はどこへ去ったのか? という点です。御息所本人は生きていて、魂が抜け出して来ているのに、その魂が成仏してしまったら御息所はもぬけの殻にならないのでしょうか。

 それはさておき。

 普通に上演されている「葵上」は二度、見たことがあります。今回は「古演出」というところに興味を抱いて見ました。登場人物が多く、破れ車の作り物まで出るので、わかりやすいというのが感想です。世阿弥バージョンは削れるところは全て削って、より詩的な表現に仕上げたのだということもわかりました。

 「葵上」の六条御息所について、「嫉妬に狂って生霊になり、葵上を殺そうとするとは恐ろしい」「業の深い女だ」といった評価がされるようですが、私はそうは思いません。その行動の底に沈んだ深い哀しみに心を揺さぶられてしまうのです。「業が深い」というなら、(「業」という仏教的なことばの深い意味はわからないのですが)光源氏ほど業の深い人物はいないわけで、六条御息所はそんな光源氏の常に自分本位な思考と行動に人生を踏みにじられたのだとしか思えないのです。

 後シテの般若の面にも、恐ろしさより悲哀が感じられます。女に、というより男女を問わず人間に、こんな形相になってしまうほどの悲惨な苦しみや哀しみを味わわせてはいけないのだと思います。

 2年前の秋、大槻裕一さんのシテで「葵上」を見たところ、六条御息所の哀しみがよく表現されていて、この若い能楽師さんに好感を持ちました。今回の舞台ではなぜかそれが感じられませんでした。これも世阿弥改作版と古演出版の違いなのかもしれません。 

 私は六条御息所が好きで、光源氏という人物のことはちっとも好きになれません。「源氏物語」に出てくる女性たちは藤壺も葵上も六条御息所も紫の上も、みんな光源氏の犠牲者だと考えています。

 もっとも、「源氏物語」を原作どころか現代語訳でさえ初めのほうしか読んだことがないので、単純な思い込みにすぎないのかもしれません。