冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

能「三井寺」(京都観世会館)

 京都観世会9月例会に行きました。能3曲(「錦木」「三井寺」「天鼓」)、狂言1曲、仕舞4曲が上演されました。この日の私の一番のお目当ては「三井寺」。これが期待以上の素晴らしさでした。主な出演者は次のとおりです。

   シテ 片山九郎右衛門

   ワキ 宝生欣哉

   大鼓 河村 大

   小鼓 飯田清一

   笛  杉 市和

   アイ 茂山忠三郎

 我が子が行方不明になった母(シテ)が清水寺に参詣し、子との再会を祈る。すると夢の中で清水観音から子に会いたければ三井寺へ行けというお告げを受け、母は三井寺へと急ぐ。(当日のチラシより。続きは省略)

 このあと、中秋の名月三井寺で奇跡が起こります。

 この曲は私が京都まで習いに行っている謡の講座で今年、取り上げられています。もっとも、このところ忙しくて、ちっとも出席できていないのですが。

 習っていたのは、母親が清水寺を後にして三井寺に向かうときの場面です。詞章は次のとおり。

 かやうに心あり顔なれども。我は物に狂ふよなう。いや我ながら理(ことわり)なり。あの鳥類や畜類だにも。親子の哀は知るぞかし。ましてや人の親として。いとほし悲しと育てつる。子の行方をも白糸の。乱心や狂ふらん。

 この部分の抑揚や強弱に母親の気持ちをどう表現するか、林宗一郎師は教えてくださったのですが、私のような初心者にはまったくできませんでした。この日、片山九郎右衛門さんが橋掛りでこの部分を謡うのを聞いた時、そこに表現されている心情の深さと繊細さにゾクゾクしてしまいました。

 九郎右衛門さんの声は素晴らしい。単に美声というのではなく、複雑に濃淡・深さが絡み合い、しかも正確に制御されているという印象です。舞も美しくて目が吸い寄せられます。物狂いと言っても終始、気品に満ちた狂女でした(そもそも能に登場する「狂女」は、今の私たちが考えるような「狂人」ではないらしいです)。

 囃子方の3人、アイの狂言方も見事で、「なんだかすごいものを見てしまった」という印象です。ただ一つ残念だったのはワキツレ二人のうちの一人が若過ぎるからか、まだ体も声もできておらず、浮いていたことでした。お名前からして、宝生流の後継者ではないかと想像しました。

 若い後継者を超一流の能楽師さんたちの舞台に出演させるというやり方は、よくあることのようです。何より勉強になるのでしょう。でも、観客としては正直言って迷惑です。ほかに効果的な教育方法はないのでしょうか。

 もっとも、ワキツレの一人の出来が悪いくらいでこの舞台が台無しになるようなことはなくて、陶然としているうちに終演を迎えました。