冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

久しぶりに能を見ました 「猩々乱」「山姥」(京都観世会館)

 コロナで一切の舞台公演が中止されて、大好きなお能文楽も生の舞台が見られない日々が続いていましたが、25日(日)、ようやくお能の公演を拝見することができました。会場は京都観世会館、第62回京都観世能です。この日の公演は2部制になっており(コロナ対策なのでしょう)、私が見たのは10時開演の第1部です。

 上演された能の曲は「猩々乱(しょうじょうみだれ)」と「山姥(やまんば)」。どちらも以前から見たいと思っていました。最初に演じられた「猩々乱」がとても楽しく、めでたい雰囲気にあふれ、大好きな曲になりました。当日のチラシからあらすじを紹介します(長いので省略して書きます)。

 昔の中国のお話。高風(こうふう)という親孝行の男がある夜、市で酒を売れば富を得られるという 、不思議な夢を見る。その通りにすると、次第に富貴の身となった。市ごとに来ては酒を飲む者がいて、どれだけ飲んでも顔色一つ変わらない。名前を尋ねると「海中に住む猩々」と答えた(注・海というのは揚子江のことだそうです)。

 秋の月の美しい夜、高風は酒壺に酒を満たして海のそばで猩々を待った。猩々が海から浮かび上がり、酒を飲む。月や星の美しさを愛で、芦の葉の笛を吹き、波の鼓の音楽に合わせて舞う。そして高風の孝心を讃え、汲めども尽きせぬ泉の酒壺を与えて帰ってゆく。

・・・・・・・ここまで・・・・・・

 今回はもともと「猩々」という演目に「乱」が付き、「置壺」「双之舞」という小書(こがき。特殊演出のこと)が付いていました。これもチラシの解説から引用すると、

 常は「中之舞」を舞うところを「乱」と称する特殊な舞を舞う。囃子は緩急自在に秘術を尽くし、シテ はすり足を用いず、水を蹴り、波間を流れ、浮きつ沈みつ舞い戯れる。「置壺」は、常は出されない酒壺の作り物が正先(しょうさき。舞台正面中央の客席に一番近いあたり)に据えられ、酒友の心を具象化する。「双の舞」は二人の猩々が現れる演出で、楽しさも倍増する。祝言と音楽と舞をもって、万民の安寧を願う祈りの曲である。

・・・・・・・ここまで・・・・・・

 猩々というのは架空の生き物です。二人の猩々を片山九郎右衛門さんと味方玄さんが務められました。赤頭(あかがしら。赤い毛のかぶりもの)を着け、面は童子のような表情。お二人ともなぜか小柄に見えました。前に見た「二人静」の時と同じようにお二人の呼吸がぴたりと合っていて見事です。波打ち際をつつつ…と弧を描いて横へ移動する足使い(「屋島」で見たことがあります)など、躍動感が感じられました。謡の内容がわかりやすく、話もシンプルなので、すっとその世界に溶け込んでいけました。そして、見終えた後にほんわかと気持ちの良い余韻が残りました。

 ユーチューブで猩々が7人も登場するバージョン

 を見つけました(宝生流)。「乱」が付いていないので、仕舞は地味です。

 もう一つの「山姥」も楽しみにしていたのですが、ほとんど眠ってしまい、よくわからずじまい。左鴻泰弘さんの笛がとても素晴らしくて、深山の一隅を照らす月が鮮やかに目に浮かんだことだけ、はっきりと覚えています。

 この秋は文楽の公演もようやく再開されます。東京では9月に公演が行われたのですが、本拠地の大阪では10月末から始まります。やっと、やっと文楽が見られる、義太夫が聴けると思うとうれしくてたまりません。