晩秋の斑鳩(いかるが)から安堵の里へ 10km
12月2日(日)、初めて奈良方面へハイキングに行きました。「JRふれあいハイキング」の催しで、タイトルはこの記事の表題のとおりです。行程は約10kmでした。
集合はJR王子駅に9時半。王子までは大阪駅から大和路快速1本で行けるので、便利です。
改札口を出た所で主催者の「安堵観光ボランティアの会」の方々が受付をしていました。ある程度の人数が集まると順次、出発します。私は2班で、幸運なことに参加者は12人と少なめでした。主催者のスタッフが男女各1名ついてくださいました。
男性が先頭に立って道案内をするとともに、各所で立ち止まって説明をしてくれます。女性はしんがりを務め、車が来ましたよ! と注意を呼びかけたり、説明の補足をしました。二人とも高齢の方ですが、とてもお元気で配慮が行き届いていて感じの良い方々でした。
さて、コースは…。
さて、コースは…。
まず三室山の登り口へ。山と言っても標高はわずか82mです。残念ながら工事中のため、登りませんでした。
登り口には神岳(かむおか)神社の石柱が立っています。
「みむろ」とは、神の鎮座する山や森を表す言葉だそうです。飛鳥時代、聖徳太子が斑鳩宮造営にあたり、出生地の産土神(うぶすながみ)を勧請して、その山を三諸山(みもろやま)と呼んだとのこと。
竜田川へ向かいます。竜田川といえば有名な和歌があります。女性のスタッフさんが紹介しようとして「嵐吹く…何やったかな」と言ったとき、「三室の山の」という続きの7音が口をついて出ました。
登り口には神岳(かむおか)神社の石柱が立っています。
「みむろ」とは、神の鎮座する山や森を表す言葉だそうです。飛鳥時代、聖徳太子が斑鳩宮造営にあたり、出生地の産土神(うぶすながみ)を勧請して、その山を三諸山(みもろやま)と呼んだとのこと。
竜田川へ向かいます。竜田川といえば有名な和歌があります。女性のスタッフさんが紹介しようとして「嵐吹く…何やったかな」と言ったとき、「三室の山の」という続きの7音が口をついて出ました。
嵐吹く 三室の山の もみじ葉は 竜田の川の 錦なりけり
百人一首に収められた能因法師の歌です。百人一首は高校生の時にしっかり覚えました。学年別にクラス対抗の百人一首大会が毎年行われ、私はクラス選抜5人のチームにいつも入っていたからです。百人一首が大好きでした。映画「ちはやぶる」を見たとき、懐かしさを覚えました。あんな高速で札を取った訳ではないですけどね。
昔覚えたことの方が最近覚えたことよりもよく脳に残っているというのは本当らしいです。
昔覚えたことの方が最近覚えたことよりもよく脳に残っているというのは本当らしいです。
もう一つの有名な和歌と、二首を並べて刻んだ石板がありました。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは 在原業平
竜田川に着きました(本当は、昔の竜田川は大和川本流のことだったそうです)。
写真の橋は、その名も「紅葉橋」(写真はクリックすると拡大します)。
川を渡って、土手を登ります。
イメージどおりの見事な紅葉です。
この紅葉を眺めることができて、この日のハイキングの目的はほとんど達成されたようなもの。そう思えるくらい、美しい眺めでした。ガイドの方々も「間に合ってよかった」と笑顔でした。
竜田城跡。と言っても、何も残っていません。初代藩主は片桐且元。
龍田神社。
社伝によると、龍田大明神が老人の姿で聖徳太子の前に現れたので、太子はその言葉に従って法隆寺建立の場所を定め、龍田神社を法隆寺の鎮守神にしたのだとか。
能のルーツである大和猿楽の一つ、金剛流の発祥の地でもあり、それを表す石碑が立っていました。
境内ではお正月に備えてしめ縄づくりが行われていました。作業をしているのは氏子さんたちなのでしょう。
藤ノ木古墳。
1985年(昭和60年)に発掘されたとき、大ニュースになりました。盗掘されていない古墳だったのです。
その後、何度かに分けて発掘調査が行われ、朱塗りの石棺、二人の男性の被葬者(一人は20〜40歳、もう一人は17〜25歳)、豪華な副葬品の数々が発見されました。
男性二人が合葬されている古墳は珍しいそうで、二人はどういう人物でどのような関係だったのか、いくつか説があるとのことでした。
入り口から仄暗い内部をかすかに眺めることができます。
法隆寺南大門を過ぎ、
法隆寺 i センター(斑鳩町観光案内所の愛称)で昼食です。
午後、上宮(かみや)遺跡公園。
称徳天皇が道鏡と会う際に利用した行宮(あんぐう)、飽波宮(あくなみのみや)跡と考えられています。ここは説明を受けただけで中には入りませんでした。
駒塚古墳、調子丸古墳を遠くに眺めながら歩きました。
聖徳太子の愛馬、「黒駒」を葬ったのが駒塚古墳、黒駒のくつわを取っていた従僕の調子丸を埋葬したのが調子丸古墳です。なんと、黒駒古墳の方が大きくて、形も前方後円墳で立派なのです(調子丸古墳は丸墳)。
入り口から仄暗い内部をかすかに眺めることができます。
法隆寺南大門を過ぎ、
法隆寺 i センター(斑鳩町観光案内所の愛称)で昼食です。
午後、上宮(かみや)遺跡公園。
称徳天皇が道鏡と会う際に利用した行宮(あんぐう)、飽波宮(あくなみのみや)跡と考えられています。ここは説明を受けただけで中には入りませんでした。
駒塚古墳、調子丸古墳を遠くに眺めながら歩きました。
聖徳太子の愛馬、「黒駒」を葬ったのが駒塚古墳、黒駒のくつわを取っていた従僕の調子丸を埋葬したのが調子丸古墳です。なんと、黒駒古墳の方が大きくて、形も前方後円墳で立派なのです(調子丸古墳は丸墳)。
愛馬や従僕も古墳に祀られているのかあ。と感心して説明を聞いていたのですが、実は考古学での調査によって、この二つが作られた年代は5世紀で、聖徳太子が活躍した時代よりずっと前だということがわかったのだそうです。事実より物語の方が面白くできているんですね。
高安天満宮、そして善照寺へ。
1467年、応仁の乱が始まった年に蓮如上人によって開かれています。安堵町で最初の小学校、「明倫館」が明治6年にここで開かれたとか。境内には樹齢250年を超える「富生(ふしょう)の松」が奇怪な姿を見せています。
高安天満宮、そして善照寺へ。
1467年、応仁の乱が始まった年に蓮如上人によって開かれています。安堵町で最初の小学校、「明倫館」が明治6年にここで開かれたとか。境内には樹齢250年を超える「富生(ふしょう)の松」が奇怪な姿を見せています。
広峰神社。
聖徳太子ゆかりの飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)と伝わる地に建てられた神社です。境内にムクロジの大木がそびえています。ムクロジの実の皮はサポニンという泡を出す物質を含んでいるので、昔は石鹸の代用に使われました。種子は黒く、羽根つきの羽根の球に使います。
王子駅での受付の際にムクロジの皮付きと皮なしの2種類の実を入れた小袋をもらっていました。なんでだろうと不思議に思っていたのですが、安堵町にゆかりの深い植物だとわかりました。
鳥居の手前には「業平姿見の井戸」が。でも、周囲はコンクリートでした。
大正4年に敷設された小型蒸気鉄道の天理軽便鉄道の遺構を何カ所かで見ながら、ゴールの法隆寺駅にたどり着きました。
斑鳩といえば、昔、田んぼの中の一本道をずっと歩いた記憶があります。はるか遠くまで田園が広がって、なんとものどかな気分に浸ったものです。
数十年がたって、斑鳩町にもずいぶん住宅が増えました。斑鳩町の隣、安堵町の方に田畑が多く残っていて、安らぎを覚えました。ボランティアの方は「何もないところなんですよ」と言っていましたが、何もないことこそ今では希少価値です。
あちこちに聖徳太子にまつわる伝説が残っていました。省略しましたが、在原業平に関わる伝承も多い。随所で説明を聞かせていただいたおかげで、この二人、とりわけ聖徳太子が以前より身近に感じられるようになりました。
もっとも、昨今では「厩戸王」という人物は確かにいたが、「聖徳太子」という名のスーパーマンのような人物は実際には存在しなかったという説も有力になってきているようです。
お天気は快晴で、午後は汗ばむほど。スマホの歩数計では18km余り、26000歩近くを歩いていました。
(説明は一部、当日配られた資料…コースマップの裏面の文章と、冊子「あかりのまち 安堵」から引用させていただきました。)
数十年がたって、斑鳩町にもずいぶん住宅が増えました。斑鳩町の隣、安堵町の方に田畑が多く残っていて、安らぎを覚えました。ボランティアの方は「何もないところなんですよ」と言っていましたが、何もないことこそ今では希少価値です。
あちこちに聖徳太子にまつわる伝説が残っていました。省略しましたが、在原業平に関わる伝承も多い。随所で説明を聞かせていただいたおかげで、この二人、とりわけ聖徳太子が以前より身近に感じられるようになりました。
もっとも、昨今では「厩戸王」という人物は確かにいたが、「聖徳太子」という名のスーパーマンのような人物は実際には存在しなかったという説も有力になってきているようです。
お天気は快晴で、午後は汗ばむほど。スマホの歩数計では18km余り、26000歩近くを歩いていました。
(説明は一部、当日配られた資料…コースマップの裏面の文章と、冊子「あかりのまち 安堵」から引用させていただきました。)