冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

能「定家」(大槻能楽堂) つづき

 公演に先立って、村上湛さんという方の解説がありました。

 舞台は上京千本あたり。現在の千本通はその昔の朱雀大路で、都のメインストリートだったのです。そこに定家の「時雨の亭」があったという設定です。亭というのは壁のない東屋で、そのような簡素な建物を模して書斎の名前にしていた、という意味です。書斎だけがぽつりとあったはずはなく、そこに昔、定家の邸があったという設定なのです。史跡としての藤原定家の屋敷跡はずっと東寄りの寺町通に残っています。

 式子内親王後白河院の娘で賀茂斎院を務めた女性。定家の父、藤原俊成を師とした歌人で、歌人として高く評価された人ですが、謎めいたところが多いのです。身分が高く歌の才能のある人の多くが行なっていた「歌合(うたあわせ)」というものを一度もせず、ごく私的に歌を詠むだけで、詠草(下詠み)も残していないからです。

 一番有名な歌は百人一首におさめられた「玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らえば 忍ぶることの 弱りもぞする」です。この時代に詠まれた歌はほとんどが「題詠」、つまり与えられたテーマに沿って作ったもので、作者の実体験が入っているとは限らないというか、むしろ虚構である場合が多い。それにしてもこの歌は、人に言えない恋を永遠に抱えて苦しんでいたいという自己虐待的な内容で、激越な恋の感情を詠んでいるところが強く印象に残ります。定家の詠んだ歌にも同じような激越さが見られる例があることから、後世、この二人が恋愛関係にあったのではないかという想像、フィクションが生まれたというお話でした。年齢は、式子内親王の方が定家より一回り以上年上です。

 この能「定家」はそのフィクションを作品にしたものであり、またこの作品によって式子内親王と定家は恋人同士だったという説がいっそう広まったのでしょう。

 感想は次の記事に書きます。