冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

大槻能楽堂でろうそく能「半蔀(はじとみ)」

 7月に2度、能を見ました。順番に書いていきます。

 7月14日(金)の夕方、大槻能楽堂へ。毎年7月に行われている「ナイトシアター ろうそく能」を見るためです。

 まず点灯式。照明が消されて、舞台を囲むように置かれた和ろうそくに火が灯されます。場内が神秘的な雰囲気に包まれました。

 2年前の「ろうそく能」で撮った写真です。

 

 今年の曲は「半蔀(はしとみ。観世流でははじとみ)」。「立花(りっか)供養」という小書(こがき。特殊演出のこと)が付いています。この小書が付くと、ワキ僧が登場する前に、舞台正面に実物の立花(花をいけたもの)が出されます。今回は華道家池坊の次期家元、池坊専好さん(女性)が二人の弟子(男性)を助手にして、観客の目の前で花を生けました。立派な松を中心に、赤い花が印象的な、スケールの大きい花でした。

 落語家の桂吉坊さんの司会で池坊さんと大槻文藏さんが対談。池坊は日本のいけばなを創始した、いけばなという伝統文化のルーツなので、「池坊流」とは言わないらしいです。家元は京都の六角堂(紫雲山頂法寺)の住職でもあるのだそう。「立花」は池坊でも一番古い様式の花のいけ方だということでした。

 休憩を挟んでいよいよ公演が始まります。「半蔀」のあらすじを当日配られたチラシからお借りします。

 紫野・雲林院の僧が、夏の修行の終わりに仏前に供えた花々に感謝を込めて立花供養をしていると、どこからともなく女が現れて一輪の白い花を供えた。女は、その花は夕顔で、自分は五条辺りに住んでいた者だと言うや立花の影に消える。

 僧は、女が『源氏物語』の「夕顔の女」だと思いあたり、出向いて弔うことにする。はたして、夕顔の蔓の這い伝う家で、女は秋の訪れた寂しい夕景色を眺めていたが、半蔀を押し上げて姿を見せ、光源氏との束の間の恋の思い出を語り、追憶に浸りつつ舞う。

 寝殿造などの上下二枚からなる戸を蔀(しとみ)といい、半蔀は上部を外へはね上げて開くようにしたもの。半蔀の向こうから現れたのは光源氏の愛した夕顔の女か花の精か。

・・・・・・・・・・ここまで

 

 僧が「立花供養」、つまり花を供養しているところに女が現れて、夕顔の花を供える。ということは、夕顔の花も一緒に供養してくださいという意味なのでしょう。僧はその女が「源氏物語」の「夕顔の女」だと気づき、女を供養します。供養の対象が花から女に変化しています。

 なんで? と思ってしまいますが、舞台を見ているうちに、この女性は本当に「夕顔の女」なのか、それとも夕顔の花の精なのか、わからなくなるのです。私の印象では、夕闇にほのかに浮かび上がる白い花のイメージが濃厚で、花の精だと感じられました。

 シテを演じたのは友枝昭世さん。シテ方五流の一つ、喜多流の実質的な家元で、人間国宝です。大槻文藏さんもそうですが、ゴツゴツした骨格の男性がどうしてあんなたおやかな美しい女性を演じることができるのか、いまだに不思議でなりません。能を見ているときは男性だなんてみじんも思えないです。歌舞伎の女方とも違います。

 ワキの僧は宝生欣哉さん。公演後しばらくしてから、人間国宝に選ばれたというニュースを見ました。

 半蔀は作り物で表現されます。能の作り物というのは一般の演劇で言うと大道具のようなものですが、至って簡素な手作りです。若手の能楽師さんが公演前に短時間で作るのだそう。それでも一応今回は半蔀の形はしていて(もっと象徴的な表現しかしない場合も多いのです)、橋がかりに置かれた半蔀からシテが本舞台に向かって出てくる部分では、リアルな表現ではないだけに、幻想的な、夢を見ているような気持ちになりました。

 謡は、シテと地謡の掛け合いのような部分が聴いていて心地良かった。「源氏物語」というフィクションの中の登場人物を、まるで実在の人物みたいに扱っているところに不思議な味わいがあり、「半蔀」という曲が好きになりました。

 謡を習っている講座では、「半蔀」は初級の26番目にお稽古することになっています。今は4番目の「富士太鼓」の最初の部分をお稽古中。26番目なんてまだまだ先のことで、そこまでたどり着けるかどうか心もとないです。