冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

義母の思い出…料理上手

 義母は昨年の秋、老衰で亡くなりました。94歳でした。

 晩年は認知症になっていました。会いに行ったときに昔の楽しかった思い出を話しても、「そうやった?ちっとも覚えてへんわ」と言うのです。私はそのたびに「私が覚えているから大丈夫ですよ」と答えていました。

 義母という人が94年の人生を生きたことのあかしとして、私が覚えている義母の思い出を書いておくことにします。

 義母は昭和一桁生まれ。門司にあった生家は貧しくもなく裕福でもない暮らしぶりだったようです。8人か9人か忘れましたがきょうだいがたくさんいて、義母は末っ子でした。歳の離れたお姉さんたちに可愛がってもらったと、懐かしそうに話していたことがありました。

 当時の女性としては珍しく、女子専門学校という高等教育機関に進めたのも、お姉さんたちが応援してくれたからではないかと思います。そこでは数学を専攻していました。学校では毎日、ひたすら勉強に励んだそうです。卒業後は、短い期間でしたが、尋常小学校で教鞭をとっていたと聞いています。

 戦時中の話はあまり詳しく聞いたことがないのですが、空襲の恐怖や、食べるものも生活物資も何もないことの辛苦は折りに触れて話していました。

 戦後、義父とお見合い結婚をして、神戸にやってきました。義父の両親や義弟夫婦との同居でしたので、苦労が絶えなかっただろうと想像します。義母自身は、「独身の頃はちっとも料理をしていなかったから、何も知らなかった。結婚してから覚えた」と話していたので、この間に料理をはじめとして、家事をみっちり仕込まれたのでしょう。男の子が二人、生まれました。上の子が、後に私の連れ合いになる人です。

 その後、どういう経緯からかは知らないのですが、義父母はその家を出て、独立して暮らすようになりました。

 ここからは義母のスーパー主婦ぶりを紹介します。書きたいことがいくつかあるので、今回はまず料理について記します。

 義母は料理がとても上手でした。技術が優れているだけでなく、味覚が鋭くて味付けが的確。知らない料理にも果敢に挑戦する。材料費を安く済ませ、手間をかけて一級品に仕上げる。作るのも片付けるのも手早い。などなど、どの面から見ても立派な料理人でした。

 私が結婚してまだ日の浅い頃、私の実家の両親が義父母の家に招かれて、義母の手料理を食べさせてもらったことがありました。メニューは和食のフルコース。一品ずつは少なめの量で、びっくりするほどたくさんの種類の料理を次々と、手早く作って出していました。私は運び役をしつつお相伴に預かりました。具体的にどんな献立だったかは覚えていないのですが、とにかくすごく美味しかったことだけはいつまでも記憶に残っています。実家の両親もたいそう喜んでいました。ホスト役の義父も上機嫌でした。

 その後の義母の得意料理は、一つはちらし寿司でした。お酢の加減がちょうど良く、具材(椎茸、高野豆腐、焼き穴子しらす、人参など)の味付けも最高。錦糸卵と焼き海苔の刻んだもの、絹さやをさっと茹でて細く切ったものを乗せるので、見た目も華やかでした。寿司飯を木の型に押し込んで、ゆでたエビや小鯛の酢漬け、穴子、卵焼きなどを乗せた押し寿司も作ってくれ、御馳走感が一段とアップしました。

 カレーも絶品でした。骨つきの鶏肉のカレーです。市販のカレールウは使わず、カレー粉と小麦粉で作っていました。美味しくするコツは玉ねぎのみじん切りを根気よく、飴色になるまで炒めることだそうです。スパイシーな味わいとほんのりした甘味が程よく調和して、ほかのどこでも食べたことのない美味しさでした。

 おせちも毎年、たくさんの種類を作っていました。私は一部分、手伝っただけなので、義母のレシピを受け継いだとは言えないものの、味は覚えています。このところ毎年作っているおせちは、義母のおせちの味加減を真似ているつもりなのですが、なかなかうまくいきません。義母のように、ためらいなくささっと味を決められる人はすごいです。