冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

義母の思い出…最後の日々

 義父が68歳で亡くなったとき、義母は私たちの前で一度も涙を見せませんでした。葬儀もその後のさまざまな手続きなども、息子たちに頼ることなく一人でこなしました。小柄で細い外見からは想像がつかないくらい、芯の強い人でした。

 生涯、外で働いたことがなく、専業主婦で通しました。私はずっと仕事を続けてきましたが、「子どもがかわいそう」とか「仕事をやめたほうがいいんじゃないの」とか言われたりほのめかされたりしたことは一度もなかったです。頭が柔らかかったのでしょう。

 子どもたちは保育園時代、よく病気になって熱を出しました。熱が下がって元気になっても(熱があっても元気だったりもしましたが)、病気によってはほかの子どもにうつす可能性のある期間が続いて、すぐには登園できないことがあります。そんなとき、頼めばいつも快く子どもを預かってくれました。何日も仕事を休み続けることはできないので、どれだけ助かったかわかりません。

 認知症骨粗鬆症、それにもう一つ病気があって、最晩年には家で過ごすことが難しくなり、有料老人ホームに入居しました。義父の遺族年金の給付が良かったので、そのお金をすべて老人ホームの費用に充てました。給付が良かったということは、義父の現役時代、月々の掛金もずいぶん高額だったに違いなく、家計を上手にやりくりしてそれを払い続けた義母に頭が下がります。

 義母の人生の最後の時期を過ごすのですから、老人ホームを決めるときは慎重に選びました。幸い、企業経営でなく、施設長さんやケアマネさんも信頼できそうな施設を、私たち夫婦の家から近いところに見つけることができました。

 夫は週に四日か五日、仕事帰りに義母に会いに行っていました。とはいっても、二人とも普段からあまり口数の多くないほうなので、取り立てて話すこともないのです。私が川島隆太さんの「脳トレドリル」という、二桁の簡単な計算をするドリルの本を買ってくると、夫はコピーを取り、毎日1枚ずつ義母にやってもらっていました。認知症が進んでいるのに計算はあっという間にできるし、答はいつもすべて正解でした。私は夫と一緒に行ったり、週に一度は一人で行って、昔のことなどあれこれ話しました。

 ところが新型コロナの感染が広がると、面会ができなくなってしまいました。施設から毎月、入居者の近況を知らせる写真入りのニュースが送られてくるので、そこに義母の姿を見つけて安心していました。流行が下火になった時期には、お花見など季節の行事で外へ連れ出してもらったりもしていたようです。

 コロナが落ち着いていた時期には面会できるようになりましたが、居室には入れず、1階のロビーでアクリル板を挟んで会話するだけでした。久しぶりに会った日は、私のことをすっかり忘れたようで、「この人、だれ?」というような表情を見せたので、悲しくなってしまいました。それより前に、あんなに可愛がっていた孫たちのことも忘れました。二人の息子のことは最期まで覚えていたので、それだけで十分だと思うようになりました。

 最後の1年ほどは食欲が落ちて、大好物の果物(夫がいつも差し入れていました)さえもだんだん食べなくなりました。危篤になったときは、ありがたいことに、夫と義弟と私、それに下の娘も居室に入らせてもらえ、義母のそばでみとりをすることができました。窓を開け、マスクははずさせてもらいました。延命治療はしないでほしいとあらかじめ施設に伝えておいたので、施設から病院へ移されずにすみました。

 その日、義母の居室へはホームのスタッフさんが何人も、かわるがわる義母の様子を見にきてくれました。息を引き取った後も、一人ずつお別れに来てくれて、中には私たち家族以上に泣いていた人もいました。ヘルパーさんの一人は、「○○子さんはいつも穏やかでユーモアがあって、私はいつも○○子さんに癒してもらっていました」と話していました。義母は老人ホームで人気者だったのだと、初めて知りました。

 最近、「日本人は劣化してきた」と感じることが増えました。トシヨリに多い「近頃の若いモンは」という愚痴ではなくて、年齢に関係なく若者も中高年も劣化してきているように思います。義母は、劣化する前の日本人でした。考えてみれば、義母に比べると間違いなく私も劣化しているので、「日本人は劣化してきた」だなんて、人ごとのようなエラソーなことは言えないなあと思ってしまいます。

 「義母の思い出」の記事は今回で終了です。