冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

義母の思い出…書道の腕前など

 義母はだんだん歳を取って目が悪くなると、洋裁はやめてしまいました。その代わりにかどうかわからないのですが、書道を習い始めました。もともと硬筆で書く文字は上手だったのです。だからと言って、毛筆も才能があるとは限らないのですが、義母の場合は毛筆も上達しました。楷書、草書ともに、お手本にしたいくらいの出来栄えでした。

 書道の先生に勧められたらしく、楷書の作品と草書の作品、それぞれ1枚ずつを額装にして、義父母の家の居間の壁にかけていました。きちんとしていて、それでいて明るさや伸びやかさの感じられる、見ていて気持ちの良い文字でした。

 ここからは思いつくままに、義母についてよく覚えていることを記していきます。まず、一度買った家電製品は何十年も使い続ける人でした。ミシンもそうでしたが、ほかにもガス炊飯器、2槽式の洗濯機、それにアイロンも、戦後、家電が普及してから間もない頃に買ったものを長く使い続けていたのではないかと思います。さすがに1度や2度は買い換えたでしょうが、それにしても何十年かは大事に使っていました。最近の家電と違って、その頃のものは長い期間、修理もしてもらえたようです。

 住んでいる家のメンテナンス(塗装のやり直し)を外注せず、自分でやっていました。といっても実働部隊は二人の息子で、義母は指揮を取るのです。家が古い平屋建てのプレハブ住宅で、屋根の傾斜がゆるかったので、上にのぼるのは難しくなかったようです。息子たちはペンキの缶と刷毛を持って屋根に上がり、義母は庭から見上げて塗り残している箇所を教えていました。洋裁もそうでしたが、自分でできることはできるだけ自分でするというのが信条のようでした。

 また、家計の運営がとても上手でした。毎日、家計簿をつけて、帳簿と現金を一円単位まできちんと合わせていました。数字に強いので計算が苦にならないということもあったのでしょう。亡くなってから遺品を整理していたら、本箱から古い家計簿がどっさり出てきました。それを見ると、食材の買い物は週に2回しか行っていませんでした。私にもわかるのですが、スーパーに行くと、安売りの品が目について、つい予定外のものまで買ってしまうのですよね。それを避けるためにはスーパーに行く回数を減らすことが一番なのです。とはいっても週2回の買い物、それも歩いて行くのですから、調味料やお米のような重いものは買いきれず、コープ神戸の共同購入という宅配システムを利用していました。

 暮らしぶりは慎ましく質素でした。かといって、ケチだとかお金の使い惜しみをしていると感じたことは一度もなかったです。冠婚葬祭や晴れの日のご馳走には惜しみなくお金を使っていました。上手にメリハリをつけていたのだと言えるかもしれません。

 私が結婚してから半年くらい経った頃、義父母と私たち夫婦と4人で旅行したことがあります。そのとき、岡山の備前に行き、備前焼の窯元を訪ねました。緋襷(ひだすき)という備前焼特有の変色部分が入った器は結構な値段がしていました。私たちは口径が5センチくらいの小ぶりの花瓶を買いました。それでも5,000円くらいはしました。40年以上前の5000円ですから、それなりに思い切った買い物でした。

 義父母は大ぶりの花瓶を買っていました。値段は忘れましたが、何万円かはしたと思います。思いつきで買ったのではなくて、これを買うのが旅の目的の一つだったらしいです。その後、この花瓶は来客のあるときなど、義母が床の間に花を生けるのに長く活躍していました。

 よく考えて本当に必要なものだけを買い、買ったものは長く大事に使い続けていました。大量生産、大量消費の世の中になり、「消費は美徳」の風潮が広がっていたときも、義母の生活スタイルは変わりませんでした。昭和一桁世代ならではの「もったいない」精神を貫いただけなのかもしれないのですが、地球規模の環境破壊が厳しい現実になってきているこのごろ、義母はつくづくかしこい人だったと思うのです。