冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

番囃子「求塚」(2月27日、京都観世会館)

 京都観世会2月例会に行きました。プログラムは番囃子「求塚(もとめづか)」、狂言「口真似」、能「熊野(ゆや)」、仕舞「竹生島」「雲林院」、能「山姥」でした。

 「求塚」のあらすじを「銕仙会 能楽事典」のサイトからお借りします。

早春のある日。僧の一行(ワキ・ワキツレ)が生田の里に到ると、菜摘みの女たち(前シテ・ツレ)が現れる。女たちは僧を土地の名所へと案内するが、僧が“求塚”の名を出すや、女たちは一斉に口をつぐみ、菜摘みに興じつつ帰っていってしまう。ところが、その中の一人(前シテ)だけはその場に残ると、僧を求塚へ案内する。この塚は、想いを寄せる二人の男の間で板挟みとなり入水自殺した、菟名日処女(うないおとめ)の墓であった。女は処女の故事を身の上のように語ると、救済を願いつつ姿を消してしまう。

僧が弔っていると、地獄の苦患に憔悴した姿の処女の亡霊(後シテ)が現れた。仏法の力によって視界を覆う業火の煙を晴らした処女だったが、そこに現れたのは、二人の男と、その争いに巻き込まれて死んだ鴛鴦の亡魂であった。地獄の炎で焼き尽くされ、責め苛まれる処女。彼女は果てなき闇路に迷い続ける姿を見せつつ、消えてゆくのだった。

 

・・・・・・・・・ここまで

 

 「番囃子」という上演形式を見るのは初めてです。何度か見た「素謡(すうたい)」ではシテ方能楽師さんが、多くの場合8人登場します。舞台向かって左手前の柱に向かって4人ずつ2列に座って、1曲全部を謡います。シテ役、ワキ役、ツレ役は決まっており、その他の方は地謡です。シテ役などの方々も地謡の部分は一緒に謡います。ワキ方能楽師さんやアイ狂言狂言師さんは出ませんし、アイ狂言の部分は省かれます。

 番囃子ではワキ方能楽師さん、アイ役の狂言師さんも後列に並びました。ワキ方(旅の僧の役)の福王茂十郎さんが向かって右の端、アイ(所の者)の狂言師、茂山千三郎さんが左の端です。茂十郎さんの隣にシテ役の梅若実さん。その隣にツレ役の片山九郎右衛門さん、味方玄(しずか)さんが並びました。

 さらに、素謡と違うのは、囃子方が入ることでした。大鼓・白坂保行、小鼓・曽和鼓堂、太鼓・小寺佐七、笛・杉信太朗という顔ぶれでした。この構成で「求塚」1曲を最初から最後まで、黒紋付き・袴姿で座ったまま謡います。

 私はこの曲に興味があったのと、以前、梅若実さんが地頭(地謡のリーダー)を務める公演を見たとき、謡が素晴らしかったので、期待して臨んだのです。

 始まってしばらくすると、あいだあいだに九郎右衛門さんの小さい、でもよく通る声が聞こえます。謡とはトーンの異なる声です。初めは訳がわからず戸惑いましたが、やがてそれは梅若実さんに謡の言葉を教えているのだと分かりました。梅若実さんは謡の詞章が出てこない箇所があって、それを九郎右衛門さんが教えているのです。それが、1カ所や2カ所ではなくて、たびたびなのです。びっくりでした。

 梅若実さんのような方なら、「求塚」の謡は完璧に頭に入っていたでしょうに、足が弱ってこられたばかりでなく、頭の衰えも進んでしまったようです。無残です。救いは、言葉さえ教えてもらえば旋律はわかるということでした。それにしても、見ていてずっとハラハラのしどおしで、疲れてしまいました。地頭として立派だったように見えたのは、地謡は集団コーラスなので、ところどころ詞章を忘れてもごまかしがきくからだったのかもしれません。

 これほど衰えた姿をそれでも舞台で観客の前にさらすというのは、よほどの覚悟が要ることだと思います。梅若さんの場合、海外公演や、国内でも実験的な取り組みを多く手がけてこられています。そういう公演は興業としては赤字に終わることが多いので、多額の借金を抱えていて、とにかく舞台に出て稼がなければいけないのかなあ、と想像しました。引退してしまえば、そこからあとはますます衰えて、死を待つばかりになることが受け入れられないのかも、と思ったりもしました。どちらにしても、この状態の梅若実さんを拝見するのはもうやめておきたいと思いました。

 「求塚」の曲そのものはよくわかりました。謡の詞章も旋律もプリズムのように多面的に感じられ、奥深くて魅力的でした。次はぜひ能でこの曲を拝見したいものです。