冬すみれ雑記帳

山を歩いたり、お能を見たり。

お茶(茶道)の楽しみ その1

 40代の後半からお茶を習い始めて、一時は月に3度も4度も先生宅に通うほど、夢中になっていました。自分では月に10回くらい行きたいと思っていました。

 お茶のお稽古は、「お点前(おてまえ)」を覚えることが中心です。

 「お点前」というのは、お茶を点てる(たてる)ための一連の動作です。お茶を点てるための道具を用意する→お茶を点てる→お客にお茶を出す→道具を片付ける。ごく簡単に言うと、これが一連の流れで、間にお客とのやりとりが入ります。

 例えば「道具の用意」の中には、お茶室に道具(茶碗、茶器、茶杓など)を運び込む、道具を帛紗(ふくさ)という絹の布や茶巾というガーゼのような布で拭いたり、水を使って清める、という動作が含まれます。どの過程でも動作の順番と方法は細かく決められていて、お稽古ではその動作を繰り返し行なって覚えていきます。

 お茶一服点てるだけなのに、なんでそんな面倒なことをするの? と思う人も多いでしょう。でも、お茶を習ってみると、この一連の動作を無駄なく美しくやっていくことに、大きな意味があることがわかってきます。

 決まった動作に集中していると、いつの間にか気持ちが平らかになるのです。お茶を習い始めてから15年くらいの間は仕事が忙しく、いつも頭の中がざわざわしていました。ところがお茶の先生宅に行ってお稽古に集中すると、お稽古が終わったときには頭の中がすっきりとクリアになっていました。この気持ちよさはお茶を習うまで味わったことのないものでした。

 三井物産を設立した益田鈍翁、東急の社長・会長だった五島慶太、阪急・阪神ホールディングスの創始者小林一三など、著名な財界人が何人もお茶の世界にのめり込んだ理由は、いくつかあるでしょうが、そのうちの一つはきっとここにあると、私は思っています。

 

亀井広忠さん 『12人の花形伝統芸能 覚悟と情熱』(中公新書ラクレ)から

 亀井広忠さんの大鼓は何度も聴いたことがあります。とりわけ印象が強いのは「三番叟」です。「三番叟」の大鼓はこの人しか考えられないと思うほど。毎回、初めの一打から舞台の空気が変わります。

 お父さんの亀井忠雄さんは同じお仕事(能の大鼓方)で人間国宝。白髪のきれいなご老人です。忠雄さんの大鼓は、ほかの大鼓方の方々とはまったく次元が違うように感じられます。

 お母さんは歌舞伎の囃子方の田中佐太郎さん(もちろん本名ではありません)。こちらも白髪の美しい、凛とした佇まいの女性です。

 お父さんはもちろんですが、お母さんもすごい人なのです。代々歌舞伎囃子方を勤める家に生まれ、父は人間国宝。ところが男の子が生まれず、三女の佐太郎さんが父の厳しい特訓を受けて家業を継ぐことになります。佐太郎さんと亀井忠雄さんの間には3人の男の子が生まれました。長男が広忠さんでお父さんの跡を継ぎ、次男と三男はお母さんの家の仕事、歌舞伎の囃子方を継ぎました。

 3人とも、幼い頃にまず基本をしっかり教えたのはお母さんで、その後にそれぞれの師匠のもとで修行しています。佐太郎さんは歌舞伎の囃子方を育成する訓練校の講師でもあり、今までに数え切れないほどの人材を送り出しています。歌舞伎は囃子方抜きでは成立しませんから、その功績は偉大です。

 以前、NHKで子ども時代の佐太郎さんがお父さんから鼓を教えられる様子を記録した番組「鼓の家」を見て、この方のことを知りました。その後、佐太郎さんについて書かれた『鼓に生きる 歌舞伎囃子方田中佐太郎』 (氷川まりこ、田中佐太郎  淡交社、 2018年10月発行)を読んで、ますますこの女性に心を惹かれました。

 

 話を元に戻して、表題の本から、広忠さんの言葉を紹介します。

「生まれた時から家には大鼓、小鼓、太鼓が転がっていて、楽器がおもちゃだったんです。それを弟二人と奪い合いながら遊んでいました。ガンダムのプラモデルとかミニ四駆とか、我々の世代のおもちゃでも遊んでいましたよ。でも、楽器はおもちゃでもそれらとは違う、神聖な感覚もありました。」

「大鼓が囃子チームのリーダーなので、私が彼ら(ほかの囃子方)を引っ張るんです。息づかい、打ち込む間の伸び縮み、かけ声の掛け方やタイミング、声の強弱とか、そういったもので笛、小鼓、太鼓に合図していきます。」

「(三番叟は)私の中でも思い入れが強く、一番好きな曲です。…略…(野村)万作先生のお父上の六世野村万蔵師と、私の祖父、亀井俊雄が二人で三番叟の音楽と型ときっちりと当てはめて、創り上げたと言ってもいい。お家芸と言わせていただけるなら、言わせていただきたい。私の家は、野村家と一緒に三番叟を作ったという自負がある。」

「今、一番、私が勤めさせていただけているのが、万作先生のご子息、野村萬斎師の三番叟です。…略…萬斎師とやる時は、いつもガチンコなんですよ。つまりは勝負、戦いです。やるたびに、お互いにくたびれる。」

「(能狂言、歌舞伎のほかに)よく文楽も見ています。今、大好きなのは宝塚観劇ですね。…略…あの空間の全部が好きです。見た後に幸せになれます。昔から雪組が1番のひいきです。今はのぞ様(望海風斗さん)が飛び抜けて上手くて。」

「お茶、お花、能といった室町文化は非常に禅の影響があるので、自問自答とか、自分を苦しめる方向に持っていきがち。それが江戸時代の歌舞伎や文楽になると、お客様に喜びを与えるエンターテインメントになった。さらにエンターテインメントになったのが現代の宝塚やアイドルでしょう。」

 野村萬斎さんvs.亀井広忠さんの、ど迫力の三番叟。今年もお正月に見られて、眼福、耳福でした。

 広忠さんのお話をもっと読みたくなりました。

 

 

本の紹介 『12人の花形伝統芸能  覚悟と情熱』(中公新書ラクレ)

 よく訪問しているブログで紹介されていた本です。中井美穂が読売新聞で2018年から連載していたインタビュー記事に手を入れて本にしたもの。発行されたのが2019年10月で、それから3年半が経った今、この本に登場する人たちの多くは中堅クラスの中でのトップランナーとして大活躍しています。

 12人の顔ぶれは次のとおりです。

 尾上松也  歌舞伎俳優

 中村壱太郎 歌舞伎俳優

 市川染五郎 歌舞伎俳優

 竹本織太夫 文楽太夫

 鶴澤清志郎 文楽三味線

 吉田玉助  文楽人形遣い

 宝生和英  能楽シテ方

 亀井広忠  能楽囃子大鼓方

 茂山逸平  狂言師

 春風亭一之輔 落語家

 神田松乃丞 講談師

 春野恵子  浪曲

 

 市川染五郎、宝生和英(かずふさ)、春風亭一之輔、神田松乃丞、春野恵子の5人の方以外は、舞台で拝見したことがあります。尾上松也は今のように有名になるずっと前に京都の南座で見ただけですが(若手の女方で、とてもきれいでした)、ほかの方々の芸は数えきれないくらい見て(聴いて)きました。生の舞台を知らない5人も、テレビなどの映像では知っています。春風亭一之輔は亡くなった三遊亭円楽さんの後釜として最近、「笑点」のレギュラーに加わりました。

 長年の修行を要する世界に生きてきた人たちだけに、芸のうんちく話がとても興味深いです。歌舞伎と文楽は数十年親しんできた芸能なので今も愛着が深くて、それなのにこの本を読んで初めて知ったことがあったりして新鮮でした。印象的だった部分をここに紹介したいと思ったのですが、多過ぎてきりがない!

 今は能にハマっているので、宝生和英と亀井広忠の章はとりわけ面白く読みました。宝生和英さんは能の五つある流派の一つ、宝生流の家元なのですが、なんとまだ30代後半! その若さならではの頭の柔らかさ、斬新な発想が凄くて、以前から注目していました。本の中から、言葉の一部分を紹介します。

「(他の伝統芸能と比べて)能と雅楽だけは特殊で、どちらかというと美術館の作用に近い。家族のことを考えたり、自分の気持ちを整えたりするメディテーション(瞑想)の時間は、外国ではミサがありますが、日本では能を見ることだと思います。」

「今の芸能がエンターテインメントに寄っているのが、すごくもったいないなと。ある意味、メンタルケアとか、お医者さんのような役割も、芸能は担っていたんです。」

「面を付けていると、見えるものが同じ現実のものだとは思わないんです。多分、(顔の周りが)閉鎖されているから自分の声がよく聞こえることもあるかもしれない。…中略…『無』という状態は、実は自然に考えが浮かんでくる状態なのかなとも思います。考えれば考えるほど、ある時に、どんどん自分の中から答えが、勝手にあふれ出てきてくれる。壊れた水道の蛇口のように。」

 読んで、本当? そんなことないんじゃないの? と思ったのは次の部分です。

「普通のスポーツなら、練習や試合をしていけば自然と必要な筋肉が鍛えられるでしょうが、能の稽古を何百回やっても体のトレーニングにはならない。別途、体幹を強くするトレーニングをみなさん、やっています。例えばスキーと相撲に渓流釣り。この三つは能楽師としての下半身を作る上で理にかなったスポーツです。」

 能を見ていると、たいていの能楽師さんは体幹が素晴らしく強いように見えます。あれは子どものころからの謡と仕舞の稽古で鍛え上げられるものだと思っていました。腰をやや落とし、軽く前傾したような姿勢を保ちながら、すり足で歩く。それだけでずいぶんトレーニングになりそうだと思うのに、そうじゃないとは。この部分はほかのベテラン能楽師さんのお話も聞きたいところです。

 亀井広忠さんの章については次の記事に書きます。

能「小塩(おじお)」

 カタクリの花を堪能した小塩山。聞いたことのある名前だけど、なんだったかな?

 そうそう、能に「小塩」という曲があるのです。名前は知っているけれど見たことがなくて、内容もわかりません。喜多流能楽師、粟谷明生さんのブログをのぞくと、上演したときの記事が載っていました。

awaya-akio.com

 平安時代のイケメン歌人在原業平が主人公のようで、内容も恋愛がらみです。

 読んで面白かったのは、本題とは離れますが、「大原」と「大原野」の読み方に触れたくだりです。京都の人たちはもともと八瀬大原の「大原」を「おはら」、小塩山のあるあたりの「大原野」を「おおはらの」と読んで、「おはら」「おおはら」を使い分けていたのだそうです。

 ところがデュークエイセスの「京都〜大原三千院」の歌が大ヒットして以来、「大原」を「おおはら」と読む読み方が定着してしまったのだとか。

 私は八瀬大原の「大原」と「大原野」が頭の中でごっちゃになっていて、「大原ってたしか、京都の北のほうにあるはずなのに、なんで西山に大原野があるんやろ」と不思議に思っていました。粟谷さんの記事を読んで、やっと謎が解けました。

カタクリの花が満開 小塩山

 9日、山の会の例会で京都市西京区にある小塩山(おじおやま)を訪ねました。カタクリの花の群生地に行くのです。この春は気温が高めの日が多く、どの花も早く咲き始めているので、まだ咲いているかな? そろそろ終わっているんじゃないかな? と半信半疑の気持ちで行きました。

 小塩山は京都の西側、西山連峰に位置する山です。JR高槻駅のそばから1時間近くもバスに乗り、中畑回転場というバス停へ。また1時間近く林道を歩いて、やっと山道に入ります。バスの始発が10時過ぎだったので、登り始めた時には12時頃になっていました。眺めの良い場所で昼ごはんを食べて、小塩山山頂についたのは1時半ごろ。

 ここからカタクリの群生地を3カ所回りました。日曜日なので訪問者が多いのですが、出発が遅かった分、着いたのが午後になったので、人出のピークをはずせて、結果はラッキーでした。

 3カ所とも花は咲いていました。1カ所目より2カ所目が見頃で、数も多く、見事でした。

 山の斜面一帯に咲き乱れている様子は圧巻です。

 白いカタクリも見つけました。

 2カ所目と3カ所目とではカタクリ以外の花もたくさん楽しめました。

 シハイスミレ。

 シロバナニシキゴロモ。

 チゴユリ

 ヤマネコノメソウ。

 ミヤマカタバミ

 エンレイソウ

 ムラサキケマン

 

 群生地はフェンスで囲って、地元のボランティアの人たちが維持・管理をしています。そうしないと、野生のシカに根っこごと食べられてしまうのだとか。カタクリは芽吹いてから花を咲かせるまでに何年もかかるので、保護しないと絶滅してしまうのだそうです。

 下りは歩きにくい急坂もありましたが、リーダーさんが参加者の様子を見ながらゆっくり歩いてくださったので助かりました。

 今年は例会で運よく何度も花を楽しめて、春を満喫しています。

王子が岳(岡山) コバノミツバツツジと巨岩、奇岩、そして瀬戸内海の眺望

 2日(日)、山の会の例会で岡山県の王子が岳に行きました。CLさんが配ってくれた資料によると、児島半島の南端、玉野市倉敷市の境目あたりにある山です。27人定員の貸切バスに25人が乗って、朝7時半頃に阪急電車西宮北口駅付近を出発。中国道のサービスエリアで2度休憩して、海沿いの渋川港駐車場でバスを降りました。

 100mほど歩くと登山口です。いきなり段差の大きい階段が始まり、長々と続きました。コバノミツバツツジが満開。登るにつれて、眼下に瀬戸内海の眺望が広がります。

 コバノミツバツツジの並木路を歩いて行きました。

 30分ほど登ると、矢出山。標高はわずか155m。でも、六甲山と違って、標高0mから登っているので、それなりの標高差はあるのです。

 快晴だし、スケールの大きな眺めなのですが、写真ではよくわかりませんね。

 さらに30分ほど登ったり下ったりして、ニコニコ岩に着きました。ユーモラスな表情の巨岩です。

 ほかにも大きなゴツゴツした岩がたくさん見られて、独特の景観です。

 12時半頃、王子が岳(新割山)に着きました。標高234.4m。360度の展望が楽しめる展望台のある所から緩やかに登って、広々とした芝生でお昼休憩です。

 下り道は急坂で足が滑りやすかったりするので、ゆっくり歩きます。下りも途中の眺めが素晴らしく、何度か休憩を取らせてもらいました。修験者の道場があり、岩に仏画が描かれています。

 写真ではわかりにくいかも?

 ゆっくり歩くランクの例会だったので、私よりもっと高齢で足の弱い方もいましたが、誰も怪我することなく無事に下山できました。鷲羽山に寄って、瀬戸大橋を見下ろす瀬戸内海の見事な眺望を楽しんでから帰路につきます。西宮北口駅には7時半ごろ到着しました。

 参加費は7500円。と思ったら、余ったとかで、鷲羽山での休憩時に800円を返してくれました。ボランティアで運営している会なので、誰もマージンを取ったりしませんから、格安料金です。

 普段よく歩いている六甲山や中山とは雰囲気も眺めもまるで違う山を、山の会の人たちと一緒に歩いて、とても楽しかった! こんな遠方の例会を企画し、下見をして、行き届いた案内をしてくださったCLさんSLさんには感謝しかありません。

 

山の辺の道 16km

 30日(木)に山の会の例会で奈良の山の辺の道を歩いてきました。約16kmの行程です。

 近鉄電車の桜井駅を下車して歩き始めます。初めは舗装路が多くて足が疲れました。やがて、桜並木の土手に出ました。

 大神(おおみわ)神社。とても立派です。たまに能の公演が行われるのですが、残念ながら私はまだ見たことがありません。

 この辺りの「三輪の里」はそうめん作りで有名です。文楽の「妹背山婦女庭訓(いもせやま おんなていきん)という大作では、三輪の里の造り酒屋の娘、その名も「お三輪」の悲恋が描かれています。

 桧原神社を経て、昼食場所の天理市トレイルセンターを目指しました。のどかな田園風景が広がります。

 道すがら、いろんな花が咲いていて、植物に詳しい友達が名前を教えてくれるのですが、ちっとも覚えられません。

 道端に無人の農作物販売所が先日の浄瑠璃寺近辺よりもっとたくさんあり、見つけるたびに老若男女ならぬ老老男女がわらわらと寄って行っては何やかやと買い込みます。新鮮なハッサク(3個入り袋)、デコポン(いくつか入っていました)、いちごのパック、干し大根、わけぎ、レタスなど、大抵は100円で、超お買い得でした。私は干し大根とよもぎ大福、レモン2個入りの袋を買いました。

 昼食後もよく歩いて、歩き疲れた頃、石上(いそのかみ)神宮に到着。清澄な空気が感じられました。境内には鶏が放し飼いにされています。種類はさまざま。神の使いとして大切にされているのだそうです。元気で人懐こく、羽の色がつやつやして美しい。

 天理駅から近鉄電車に乗って帰りました。足が疲れてしまい、石上神宮から天理駅までの約30分の遠かったこと!

 山の辺の道にはずっと前に2度、来たことがあります。見渡す限りの田んぼや畑の間を縫うようにして土道を歩いたのを覚えています。平和で豊かな田園風景でした。

 久しぶりに訪れてみると、ずいぶん人家が増えていました。それは仕方がないとしても、あちこちに耕されていない、荒れた畑が見られることが気になりました。日本の農業従事者の平均年齢は70歳を超えている上に、昨年からの肥料や農薬の高騰で農業をやめる人が続出しているのだそうです。これからますます野菜や果物の値段が上がっていくかもしれません。

 

 

飯盛三山をめぐる山歩き 17km

 昨日は山の会の例会で大阪市の北西部に位置する四條畷市、交野市、大東市あたりの低山をめぐってきました。標高200〜300m台のピークを次々と20以上踏破するのです。全部で17kmもの距離を歩きます。

 近いところはほんの10分ほどで次のピークに着きます。一つ一つに名前がつけられているのが不思議なほどでした。すべてに名前を書いた札が掛けられています。曇っていたので、写真がどれも暗いのが残念です。

  登ったり下ったりの繰り返しです。

↑「ぼってさん」と読むらしい。

 

 地獄谷山の周辺は名前の通り、急勾配の歩きにくい道が多かったです。

 ここらへんで山の名前の写真を撮るのをやめてしまいました。さらに10のピークを登って、飯盛小山に到着。

 桜が満開の飯盛霊園を経て、飯盛中山へ。

 ここから最後の飯盛山まではずいぶん遠かった。。。

 飯盛山を下ってからゴールの野崎観音までの30分ほどは、足が疲れ切っていたのでとてつもなく遠く感じられました。

 野崎観音です。文楽の「新版歌祭文」というお染・久松の物語でお馴染みの名所。初めて来ました。

 歩行中はあちこちで桜がきれいでした。何カ所かでコブシの花が満開。

 9時半にスタートして、ゴールの公園に着いたのは5時近く。歩数計では家を出てから帰るまでに20kmも歩いていました。私にはチャレンジの例会でしたが、無事にゴールできて自信になりました。今日は久しぶりの筋肉痛です。

「最後の講義 演出家・宮本亜門」を見て、思い出したこと

 16日に放送された「最後の講義 演出家・宮本亜門」を録画して、今日やっと見ました。

 子どもの頃から日本舞踊や茶道を習い、中学生時代には一人で京都や奈良のお寺を訪ねて仏像鑑賞にのめり込んでいたのだとか。学校ではわかってくれる友達ができず、嘲笑されたことさえあって、「なんで僕みたいなどうしようもない変わった人間を親は産んだんだ」と思い詰め、高校時代には1年間引きこもっていたのだそうです。

 その間、家にあった10枚ほどのクラシックやミュージカルのレコードを何度も繰り返し聴いて、音楽の面白さに目覚めたとのことでした。

 見ていて、「日本舞踊」「茶道」「京都や奈良のお寺」「仏像鑑賞」という言葉に反応してしまいました。

 子どもの頃、家に日本舞踊の西川流のおっしょはん(師匠のことを関西ではこう呼びます)が来ていて、祖母と姉と従姉妹が習っていました。私も姉と同じことがしたくて習い始めたのに、振り付けがさっぱり覚えられず、すぐにやめてしまいました。祖母は三味線も習っていました。その後も子ども時代にいろんな習い事をしましたが、バレエ、なぎなた、華道は続きませんでした。

 茶道は、40代の後半から習い始めて今も続けています。実は学生時代にも1年だけ習ったことがあるのですが、その時は好きになれませんでした。2度目は良い先生と出会えたので、一時は月に3度4度と先生宅へお稽古に通うほどのめり込んでいました。

 高校時代、京都や奈良のお寺を訪ねて仏像を見るのが好きだったことは、前の記事にも書きました。この趣味のきっかけは、母の本箱に見つけた岡部伊都子さんの『観光バスの行かない 埋もれた古寺』という、モノクロ写真のたくさん入った本を読んだことでした。

 ついでに言うと、日本の伝統文化の方面ばかり好きだったわけでもないのです。子どもの頃、母がテレビでよく海外の歌劇団やバレエ団の訪日公演を見ていて、私も横に座って見ました。それはまったく知らなかった世界で、ワクワクする体験でした。母はクラシック音楽も好きでLPレコードを買ってシューベルトの歌曲などを聴いていたので、それも好きになりました。私の趣味は母から受け継いだものが多いです。

 中学から高校にかけて、詩や小説を書くことが好きで、高校では文芸部に所属して校内で定期的に作品を発表していました。文才も母のDNAらしく、母は一時、同人誌に加わって短歌を詠んでいました。もともと文学少女だった母は読書が大好きで、姉と私も子どもの頃から読書が習慣になりました。

 私は今は能にはまっていますが、それも子どもの頃に歌舞伎や文楽の公演を祖母や母と一緒に見に行ったのが始まりです。当時はちんぷんかんぷんだったのに、だんだん心を引かれるようになり、高校時代からは一人で行くようになりました。文楽はその後も、何十年にもわたって見続けています。

 歌舞伎は7、8年前から見なくなりました。先先代の松本幸四郎(先代の白鸚)、先先代の尾上松緑、先代の市川猿之助(二代目市川猿翁)、六代目中村歌右衛門、先代の中村雀右衛門、先代の中村勘三郎など、昭和の名優たちの舞台を見てきたことが財産です。亡くなってしまった十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎十二代目市川團十郎、二代目中村吉右衛門の舞台も数え切れないほど見ました。一番好きな俳優さんは当代の片岡仁左衛門です。

 茶道は大人になってからの話なので別にしても、長く続いているほかの趣味は子どもの頃から高校にかけて始めたことですから、「普通の子ども」像というものがもしあるなら、その基準からずいぶん離れていたと思います。でも、それが理由で孤立感を感じたことはなかったし、高校では気の合う友達も2人できました。2人とも美術部に入っていました。

 私の趣味が「変わっている」と人から言われたことはなかったように思います。引け目を感じたこともありません。むしろテストの成績とは別のところで個性を発揮していたことが「なかなかやるね」と認められていた気がします。とはいっても、思い出は美化しがちだし、遠い昔の話なので、嫌なことは忘れただけかもしれません。

 今は学校で目立ってしまうといじめられることがよくあるみたいですが、私が育った頃には、私の知っている範囲ではそんなこともなかったです。時代がまだ、おおらかだったのでしょう。高校時代は特に、友達にも先生にも恵まれました。いろいろと悩みがあって、しんどい思いをしたこともあったけれど、環境としては幸せな思春期でした。

 一方、スポーツは何より苦手で、学校の体育の授業はいつも苦痛でした。運動なんて一生したくないと思っていたのに、50代半ばからジム通いを始め、60代で山歩きに夢中に。我ながら驚きの大転換です。今では週に1度か2度の山歩きが欠かせなくなりました。

 昨日も山の会の例会で六甲山に行ったら、コバノミツバツツジがもう咲いていました。桜も咲き始めています。この春は今までに比べて野鳥のさえずりが少なく、昨年よく見かけたメジロも姿を見せないのが気になっています。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が近づいてきているのでなければよいのですが。

 

 

大門石仏群と岩船寺、浄瑠璃寺を訪ねて

 日曜日に山の会の例会で京都と奈良の境目あたりに行ってきました。近鉄奈良駅からバスに乗り、浄瑠璃寺口で下車。ここから歩いていくと道沿いに石仏や磨崖仏がいくつも見られました。

↑ 線刻なのでほとんど消えかかっています。

 CLさんがスポットごとに立ち止まって解説してくださるので、興味深く拝見できました。ほとんどは鎌倉時代に京都の名工の手で彫られたものだそうです。長い年月の間、地元の方々が保存に尽力されてきたおかげで今も残っているのだとのこと。

 岩船寺は門の前から塔を見ただけで通過して、浄瑠璃寺へ。春は馬酔木(あしび)の花の名所です。

 たくさん花がつき過ぎて重そう。

 ピンクの馬酔木も咲いていました。

 拝観料400円を払って入りました。本堂で九体阿弥陀如来像(国宝。二体は貸し出し中で七体だけでした)を拝見して、三重塔へ。

 とても美しい塔です。

 池を挟んで向こうに見えるのが本堂です。

 浄瑠璃寺には、はるか昔の高校生の頃、仲の良い友達と二人で来たことがあります。当時は訪れる人も少なくひっそりとしていて、秘仏吉祥天女像(重要文化財)も拝見できたと記憶しています。今は年に3回、期間限定で公開されていて、この日は見ることができませんでした。

 奈良や京都のお寺を一緒に訪ね歩いたその友達は、40代のうちに病気で亡くなってしまいました。初めて浄瑠璃寺を訪れたあの頃、50年以上も経ってから山の会の人たちと再訪することになるとは想像もしませんでした。

 快晴で、気温もちょうど良く、絶好のハイキング日和。山ではなくて、一部で少し傾斜のきつい階段や坂道を登っただけでしたが、距離は8km以上歩いたし、良い運動になりました。

 何カ所か道端に無人の野菜販売所があったので、フキノトウを100円で買いました。浄瑠璃寺前の鄙びたお店では自家製の日野菜(ひのな)の漬物や梅干しも買って、ザックが重くなりました。歩きながら、つくしやよもぎを摘む会員さんもいて、季語で言う「野遊び」「摘草」の楽しい1日でした。

謡は自分の声域で謡える

 謡のお稽古が好きになった理由の一つは、自分の出しやすい声域でできるところです。

 西洋音楽ではハ長調の「ド」はこの高さというように、客観的で厳密な音の基準が決まっていますが、日本の古典的な声楽には本来、それがないらしい(私も正確なことはよく知らないのですが)。とはいえ、師匠から弟子へと口移しで伝える芸能なので、実際には音の高さが決まっていることが多いようです。

 以前、義太夫、つまり人形浄瑠璃文楽のヴォーカルを10年間習っていたことがあります。義太夫では、師匠のお手本が絶対でした。私が師事した師匠はきわめて高い音から一番低い音まできれいに出せる方で、そこが魅力でしたが、私自身は声の出せる範囲が低音域に偏っていて、高音は苦手でした。高い声を出さないといけない部分でもどうしてもその声が出ず、変な裏声になってしまうので困りました。

 謡は、先生のお手本より低いトーンで謡っても、一向に差し支えないのです。自分の謡いやすい高さで謡って構わないというのは、思いがけず自由を手に入れたみたいに気持ちが楽です。曲そのものにも、うんと高い声を出さないといけない部分は今のところ少ないです。

 もっとも、地謡(じうたい。能のバックコーラスグループ)で謡うときは、メンバーの声の高さがまちまちでは聞き苦しいですから、地頭(じがしら。地謡のリーダー)に合わせることになります。私の場合、地謡を経験するなどあり得ないので、無関係ですんでいます。

 それでも義太夫を習って良かったと思うのは、文楽の公演を見に行ったとき、以前より義太夫がよくわかり、楽しめるようになったから。文楽では義太夫が要(かなめ)なので、義太夫がわかると作品の中身を前より深く味わえるようになりました。

 それに、10年間、義太夫の稽古で大きな声を出すトレーニングを積んだおかげで、謡を習い始めたときも、声の大きさについては最初から先生に「たいへん結構です」と言ってもらえました。たいていは「もっと大きな声を出してください」と何度も繰り返し指導されるのだと、先輩の生徒さんから聞きました。古典芸能ではマイクを使わず生の声で聴衆に聞かせるため、大きな声をお腹からしっかり出す必要があるのです。

 山の会でリーダーとして10人ほどの参加者の先頭を歩いているときも、途中で参加者に指示を出す場合、大きな声が出ると、後ろのほうまで声が届くので便利です。

忙しくてできていないこと

 帯状疱疹が治った後の体力と筋力の回復はまあまあ順調で、1月下旬からほぼ週に1度か2度は山に行っています。2月下旬と昨日は、下山後梅林に寄りました。

 謡のお稽古が月2回、そのためのおさらいと予習。山の会の用事もあるし、庭はそろそろ雑草がすくすくと育ってきているので草取りをしないといけないし。相変わらず忙しい毎日です。

 そういえば最近ちっとも映画を見に行っていません。ビリー・ホリディの生涯を映画化した作品が公開されていたらしいのに、その情報を知った時にはもう上映が終わっていました。残念。

 なかなか行けないけど、舞台公演を見るのも好きです。最近はこちらのブログで紹介と感想を読むのを楽しみにしています。

mariru.cocolog-nifty.com

 このブロガーさん、古典芸能(特に歌舞伎、特に今の猿之助さんの大ファン)、ミュージカル、ストレートプレイと、興味の幅が広いです。ドラマ評も、私のように放送が終わってからではなく中盤で書いています。

 4月は、文楽の公演に行くつもりです。

www.ntj.jac.go.jp

 「妹背山婦女庭訓(いもせやま おんなていきん)」の通し上演は久しぶり。通し上演だと話の筋道がよくわかるのでおすすめです(普段は「見取り上演」と言って、長い作品の一部分だけを上演しています)。

 

追記:1部と2部が「妹背山婦女庭訓」の通し上演で、3部は「曽根崎心中」です。「妹背山婦女庭訓」の続きは夏休み公演でするそうです。「曽根崎心中」はコンパクトにまとまった名作です。近松門左衛門の作品ですが、長く途絶えていて、復活上演されたのは戦後。その時に手が加えられているので、近代的な香りのするお芝居になっています。

能「通小町(かよいこまち)」(大槻秀夫師三十三回忌追善能、大槻能楽堂)

 「義母の思い出」連載中(?)で書きそびれていた、能の公演の感想です。2月11日に大阪の大槻能楽堂で見ました。この日のプログラムは連吟2曲、能「通小町」、狂言「惣八」、能「砧(きぬた)」、仕舞4曲、舞囃子「融(とおる)」、能「乱(みだれ)」と盛りだくさん。その中で、能「通小町」がとても興味深かったです。あらすじを粟谷明生さんのオフィシャルサイトからお借りします。

 八瀬の里の僧が毎日木の実や薪を持って来る女の素性を尋ねると、市原野に住む姥で弔ってほしいと言い残して消えます。僧は姥が小野小町の幽霊と察し弔うと、薄(すすき)の中から小町の亡霊が現れ僧に授戒を願います。すると深草少将の怨霊も現れ、小町の成仏を妨げようとします。僧は深草少将に懺悔のために百夜通い(ももよがよい)を見せるように説くと、少将は雨の闇路を小町のもとに通い無念にも九十九夜目に本望をとげられずに果てたことを語り狂おしく見せます。そして飲酒戒の戒め、佛の教えを悟った途端に多くの罪業が消滅して、少将も小町も一緒に成仏出来たと喜び消えていく、という物語です。

・・・・・・・・・・ここまで

 前場の里女と後場の小町の霊(シテツレ)は大槻裕一、深草の少将の怨霊(シテ)は赤松禎友、僧は福王知登の皆さんでした。

 小町は絶世の美女なのですが、今回はなぜか可愛らしく見えました。深草の少将は装束が黒々としていて、亡者のような薄気味の悪い面で、登場したときから不気味な印象です。

 小町が僧に、成仏できるよう戒を授けてくださいと頼むと、深草少将は「あなた一人が成仏したら私はどうなるのだ」と小町に詰め寄り、僧には「早く帰ってください」と促します。そればかりか、「煩悩の犬となって打たるると離れじ」と謡いながら小町の袂(たもと)を取って引き止めます。この所作はリアルで衝撃的でさえありました。

 男性に裏切られた女性の激しい情念を描いた曲に「葵上」や「鉄輪」がありますが、この「通小町」では、それが逆転しています。しかも小町はというと、深草の少将の暗い怨念があまりピンと来ていないような、どこかのんびりした風情で、その取り合わせが面白かったです。

 深草の少将は雪の日も雨の夜も小町のもとに通い続けたのに結局裏切られた百夜(ももよ)通いの様子を再現して見せ、最後はお酒を口にしなかったことで二人ともに成仏するという結末。仏教の教訓を付け足したようなあっけなさでした。

義母の思い出…最後の日々

 義父が68歳で亡くなったとき、義母は私たちの前で一度も涙を見せませんでした。葬儀もその後のさまざまな手続きなども、息子たちに頼ることなく一人でこなしました。小柄で細い外見からは想像がつかないくらい、芯の強い人でした。

 生涯、外で働いたことがなく、専業主婦で通しました。私はずっと仕事を続けてきましたが、「子どもがかわいそう」とか「仕事をやめたほうがいいんじゃないの」とか言われたりほのめかされたりしたことは一度もなかったです。頭が柔らかかったのでしょう。

 子どもたちは保育園時代、よく病気になって熱を出しました。熱が下がって元気になっても(熱があっても元気だったりもしましたが)、病気によってはほかの子どもにうつす可能性のある期間が続いて、すぐには登園できないことがあります。そんなとき、頼めばいつも快く子どもを預かってくれました。何日も仕事を休み続けることはできないので、どれだけ助かったかわかりません。

 認知症骨粗鬆症、それにもう一つ病気があって、最晩年には家で過ごすことが難しくなり、有料老人ホームに入居しました。義父の遺族年金の給付が良かったので、そのお金をすべて老人ホームの費用に充てました。給付が良かったということは、義父の現役時代、月々の掛金もずいぶん高額だったに違いなく、家計を上手にやりくりしてそれを払い続けた義母に頭が下がります。

 義母の人生の最後の時期を過ごすのですから、老人ホームを決めるときは慎重に選びました。幸い、企業経営でなく、施設長さんやケアマネさんも信頼できそうな施設を、私たち夫婦の家から近いところに見つけることができました。

 夫は週に四日か五日、仕事帰りに義母に会いに行っていました。とはいっても、二人とも普段からあまり口数の多くないほうなので、取り立てて話すこともないのです。私が川島隆太さんの「脳トレドリル」という、二桁の簡単な計算をするドリルの本を買ってくると、夫はコピーを取り、毎日1枚ずつ義母にやってもらっていました。認知症が進んでいるのに計算はあっという間にできるし、答はいつもすべて正解でした。私は夫と一緒に行ったり、週に一度は一人で行って、昔のことなどあれこれ話しました。

 ところが新型コロナの感染が広がると、面会ができなくなってしまいました。施設から毎月、入居者の近況を知らせる写真入りのニュースが送られてくるので、そこに義母の姿を見つけて安心していました。流行が下火になった時期には、お花見など季節の行事で外へ連れ出してもらったりもしていたようです。

 コロナが落ち着いていた時期には面会できるようになりましたが、居室には入れず、1階のロビーでアクリル板を挟んで会話するだけでした。久しぶりに会った日は、私のことをすっかり忘れたようで、「この人、だれ?」というような表情を見せたので、悲しくなってしまいました。それより前に、あんなに可愛がっていた孫たちのことも忘れました。二人の息子のことは最期まで覚えていたので、それだけで十分だと思うようになりました。

 最後の1年ほどは食欲が落ちて、大好物の果物(夫がいつも差し入れていました)さえもだんだん食べなくなりました。危篤になったときは、ありがたいことに、夫と義弟と私、それに下の娘も居室に入らせてもらえ、義母のそばでみとりをすることができました。窓を開け、マスクははずさせてもらいました。延命治療はしないでほしいとあらかじめ施設に伝えておいたので、施設から病院へ移されずにすみました。

 その日、義母の居室へはホームのスタッフさんが何人も、かわるがわる義母の様子を見にきてくれました。息を引き取った後も、一人ずつお別れに来てくれて、中には私たち家族以上に泣いていた人もいました。ヘルパーさんの一人は、「○○子さんはいつも穏やかでユーモアがあって、私はいつも○○子さんに癒してもらっていました」と話していました。義母は老人ホームで人気者だったのだと、初めて知りました。

 最近、「日本人は劣化してきた」と感じることが増えました。トシヨリに多い「近頃の若いモンは」という愚痴ではなくて、年齢に関係なく若者も中高年も劣化してきているように思います。義母は、劣化する前の日本人でした。考えてみれば、義母に比べると間違いなく私も劣化しているので、「日本人は劣化してきた」だなんて、人ごとのようなエラソーなことは言えないなあと思ってしまいます。

 「義母の思い出」の記事は今回で終了です。

 

 

義母の思い出…書道の腕前など

 義母はだんだん歳を取って目が悪くなると、洋裁はやめてしまいました。その代わりにかどうかわからないのですが、書道を習い始めました。もともと硬筆で書く文字は上手だったのです。だからと言って、毛筆も才能があるとは限らないのですが、義母の場合は毛筆も上達しました。楷書、草書ともに、お手本にしたいくらいの出来栄えでした。

 書道の先生に勧められたらしく、楷書の作品と草書の作品、それぞれ1枚ずつを額装にして、義父母の家の居間の壁にかけていました。きちんとしていて、それでいて明るさや伸びやかさの感じられる、見ていて気持ちの良い文字でした。

 ここからは思いつくままに、義母についてよく覚えていることを記していきます。まず、一度買った家電製品は何十年も使い続ける人でした。ミシンもそうでしたが、ほかにもガス炊飯器、2槽式の洗濯機、それにアイロンも、戦後、家電が普及してから間もない頃に買ったものを長く使い続けていたのではないかと思います。さすがに1度や2度は買い換えたでしょうが、それにしても何十年かは大事に使っていました。最近の家電と違って、その頃のものは長い期間、修理もしてもらえたようです。

 住んでいる家のメンテナンス(塗装のやり直し)を外注せず、自分でやっていました。といっても実働部隊は二人の息子で、義母は指揮を取るのです。家が古い平屋建てのプレハブ住宅で、屋根の傾斜がゆるかったので、上にのぼるのは難しくなかったようです。息子たちはペンキの缶と刷毛を持って屋根に上がり、義母は庭から見上げて塗り残している箇所を教えていました。洋裁もそうでしたが、自分でできることはできるだけ自分でするというのが信条のようでした。

 また、家計の運営がとても上手でした。毎日、家計簿をつけて、帳簿と現金を一円単位まできちんと合わせていました。数字に強いので計算が苦にならないということもあったのでしょう。亡くなってから遺品を整理していたら、本箱から古い家計簿がどっさり出てきました。それを見ると、食材の買い物は週に2回しか行っていませんでした。私にもわかるのですが、スーパーに行くと、安売りの品が目について、つい予定外のものまで買ってしまうのですよね。それを避けるためにはスーパーに行く回数を減らすことが一番なのです。とはいっても週2回の買い物、それも歩いて行くのですから、調味料やお米のような重いものは買いきれず、コープ神戸の共同購入という宅配システムを利用していました。

 暮らしぶりは慎ましく質素でした。かといって、ケチだとかお金の使い惜しみをしていると感じたことは一度もなかったです。冠婚葬祭や晴れの日のご馳走には惜しみなくお金を使っていました。上手にメリハリをつけていたのだと言えるかもしれません。

 私が結婚してから半年くらい経った頃、義父母と私たち夫婦と4人で旅行したことがあります。そのとき、岡山の備前に行き、備前焼の窯元を訪ねました。緋襷(ひだすき)という備前焼特有の変色部分が入った器は結構な値段がしていました。私たちは口径が5センチくらいの小ぶりの花瓶を買いました。それでも5,000円くらいはしました。40年以上前の5000円ですから、それなりに思い切った買い物でした。

 義父母は大ぶりの花瓶を買っていました。値段は忘れましたが、何万円かはしたと思います。思いつきで買ったのではなくて、これを買うのが旅の目的の一つだったらしいです。その後、この花瓶は来客のあるときなど、義母が床の間に花を生けるのに長く活躍していました。

 よく考えて本当に必要なものだけを買い、買ったものは長く大事に使い続けていました。大量生産、大量消費の世の中になり、「消費は美徳」の風潮が広がっていたときも、義母の生活スタイルは変わりませんでした。昭和一桁世代ならではの「もったいない」精神を貫いただけなのかもしれないのですが、地球規模の環境破壊が厳しい現実になってきているこのごろ、義母はつくづくかしこい人だったと思うのです。